• 著者: Davis WA, Sletten EM
  • Corresponding author: Willow A. Davis / Ellen M. Sletten (Department of Chemistry and Biochemistry, University of California, Los Angeles)
  • 雑誌: Nature
  • 発行年: 2026
  • Epub日: N/A
  • Article種別: Commentary
  • PMID: 42092199

背景

2001年、H. C. Kolb、M. G. Finn、K. Barry SharplessはAngewandte Chemie誌 (vol. 40, pp. 2004-2021) に画期的なレビューを発表し「クリックケミストリー」という概念を提唱した。クリックケミストリーとは、水溶液中で極めて高効率かつ高選択的に2分子以上を「クリック」させる一群の化学反応の総称であり、望ましくない副産物を生じないことを特徴とする。元来は医薬品候補化合物の合成ツールとして構想されたが、25年を経た現在では生物学者・エンジニアの領域にまで広く普及している。KolbらのクリックケミストリーとBertozziらの生物直交性化学は2022年ノーベル化学賞に結実し、Sharpless (2回目の受賞)、Meldal、Bertozziの3名が受賞した。

クリックケミストリー誕生の背景には当時の創薬プロセスへの批判があった。2000年代初頭の製薬業界では固相合成 (solid-phase synthesis) によるコンパウンドライブラリー合成が主流であり、大量試薬の使用・廃棄物の増大・複雑な混合物の分離困難という問題を抱えていた。Kolbらは「ほとんどの探索研究は機能よりも構造に投資しすぎている」と指摘し、強い熱力学的駆動力を持ち水中で炭素-ヘテロ原子結合を高収率で形成する既存反応の再評価を呼びかけた。彼らは、天然の酵素が数十億年の進化を経て効率を確立した炭素-炭素結合形成反応とは異なり、炭素-ヘテロ原子結合形成反応はより強い熱力学的駆動力を持つため、高効率かつ高選択的な反応を設計できると考えた。しかし、発表当初は「誤解を招く」「歓迎されない宣伝行為 (unneeded and unwelcome publicity stunt)」と批判する化学者も存在した (Moorhouse et al. Chem 2023)。この懐疑的な見方が存在したことが、クリックケミストリーの初期の課題であった。

従来のコンビナトリアルケミストリーでは、薬物候補ライブラリーを同時に混合物として調製する戦略が用いられていた (Carell et al. Chem. Biol. 1995)。このアプローチでは、固相合成によってアミノ酸から大きなペプチド分子を組み立てることから始まり、後に溶液中で小さな分子を合成するようになった。ライブラリー化合物の非重複サブセットが混合物としてアッセイでテストされ、最も生物学的に活性なサブセットが、最も強力な薬物候補が特定されるまで、ますます小さなグループに細分化されてさらにスクリーニングされた。しかし、コンビナトリアルケミストリーに用いられる反応は、しばしば多段階を要し、分離が困難な非常に複雑な混合物を生成するという課題があった。この複雑さと非効率性が、より単純で効率的な合成手法へのニーズを生み出し、クリックケミストリーの概念が提唱されるに至った。

目的

本論文は、クリックケミストリーの提唱から25年間の科学的進歩と社会的インパクトを振り返り、薬剤探索、化学生物学 (生物直交性化学)、および材料科学における革新的応用とその展望を論じることを目的とする。Nature誌の「In retrospect」シリーズとして、2022年ノーベル化学賞受賞後の節目において、本分野の知的系譜を整理し、その広範な影響を概観する。特に、当初の創薬ツールとしての構想を超え、生命科学や材料科学といった多様な分野でいかにクリックケミストリーが変革をもたらしたかを明らかにすることを目指す。また、クリックケミストリーの基本原則、主要な反応、およびその応用がどのように発展してきたかを歴史的に追跡し、今後の研究方向性についても考察する。

結果

本News & Views Commentaryが論じた主要な概念・歴史的展開・応用展開を以下に記述する。引用文献n=20件 (1995-2025年) にわたり、各分野における主要な知見を網羅する。2022年ノーベル化学賞は計3名 (Sharpless、Meldal、Bertozzi) が共同受賞し、Sharplessは同賞の2回目の受賞 (1回目は2001年) となった。

クリックケミストリーの定義と原則 (2001年): Kolbらは2001年にAngewandte Chemieにてクリック反応の要件として「モジュール性・広い適用範囲・高収率 (very high yields)・無害な副産物のみ生成・立体特異性」を厳格に定義した (Kolb et al. Angew. Chem. Int. Edn 2001)。天然の酵素が数十億年の進化で解決した炭素-炭素結合形成反応 (熱力学的駆動力が弱く非効率) とは一線を画し、強い熱力学的駆動力を持ち水中で炭素-ヘテロ原子結合を高収率で形成する既存反応の再評価を呼びかけた。発表当初は「誤解を招く」「歓迎されない宣伝行為 (unneeded and unwelcome publicity stunt)」と批判する化学者も存在したが (Moorhouse et al. Chem 2023)、Sharplessグループはその直後にCuAACを実証し批判を退けた。炭素-炭素結合は天然酵素による触媒が必要だが、炭素-ヘテロ原子結合は自発的な強い熱力学的駆動力で高収率反応が実現できるという原理的優位性が、クリックケミストリー普及の基盤となった。この設計思想は、創薬における化合物ライブラリー合成の効率化を目的としていた。

代表的反応:銅触媒アジド-アルキン付加環化 (CuAAC、2002年): Sharplessグループは2002年にAngew. Chem. Int. Edn 41巻 (pp. 2596-2599) でCuAACを報告した (Rostovtsev et al. Angew. Chem. Int. Edn 2002)。不活性なアジド基 (3つの窒素原子から成る未反応性基) と合成容易なアルキン基 (三重結合した2炭素) を銅触媒で選択的に連結し、トリアゾールを形成する1ステップ反応である。CuAACはほぼ同時期にMorten Meldal (2022年ノーベル化学賞共同受賞) のグループによっても独立して報告された (Tornøe et al. J. Org. Chem. 2002)。現在CuAACはプロテオミクス実験 (Parker & Pratt, Cell 2020) における全タンパク質の代謝標識・精製のスタンダードワークフローとして確立されており、基礎科学から応用まで最も広く使用されるクリック反応となっている (Figure 1a)。この反応は、その高い選択性と収率から、多くの研究分野で不可欠なツールとなった。

薬剤探索・臨床応用への展開 (2002年~): クリックケミストリーは固相合成に代わる医薬品候補ライブラリー合成として急速に実用化された (Kolb & Sharpless, Drug Discov. Today 2003)。1ステップで単一生成物を形成するため精製が容易であり、水溶液中で実施できるため反応混合物から直接バイオアッセイに供することが可能であった。タンパク質の結合ポケット内部でin situ fragment-based drug discoveryとして薬剤候補を合成する応用も実現した (Lewis et al. Angew. Chem. Int. Edn 2002)。臨床応用の実績としては、ポリマー結合薬物分子が臨床試験に進んでおり (Olanow et al. Mov. Disord. 2020)、次世代リチウム金属電池の構成要素製造にも応用されている (Hu et al. Small 2024)。また、Srinivasan et al. (Clin. Cancer Res. 2025) では生物直交性化学のヒトへの臨床実装が示されている。これらの応用は、クリックケミストリーが単なる合成ツールを超え、実用的な価値を持つことを証明した。

生物直交性化学の独立発展:Bertozziの貢献 (2000年~): 1990年代末、Carolyn Bertozziは生体分子に存在しない官能基を用いて生体内で実施可能な高選択的化学を独立に着想した。2000年にEliana Saxonと共同でアジド基を用いたStaudinger ligation反応をScience 287:2007-2010に発表し (Saxon & Bertozzi, Science 2000)、生細胞・動物内での分子間結合形成・生物学的プロセス制御・治療薬デリバリーに応用可能な「生物直交性化学 (bioorthogonal chemistry)」の基盤を構築した。Bertozziらのグループは2010年にin vivoでの生物直交性化学応用を示し (Chang et al. Proc. Natl Acad. Sci. USA 2010)、この成果がヒト体内への直接応用 (がん細胞追跡・抗体薬物複合体) まで発展した。Bertozziは2022年ノーベル化学賞を共同受賞した。CuAAC (銅毒性で生体内は不適) とは異なり、ひずみ促進アジド-アルキン付加環化 (SPAAC) などの銅フリーのクリック反応が生体内適用を可能にした。Staudinger ligationの生体内治療応用に関する包括的レビューも提供されている (Bednarek et al. Chem. Rev. 2020)。

新世代クリック反応の開発と材料科学応用 (2014年~): Sharplessらは2014年にsulfur(VI) fluoride化学 (SuFEx) を報告し (Dong et al. Angew. Chem. Int. Edn 2014)、2023年にはphosphorus fluoride exchange化学を発表した (Sun et al. Chem 2023)。材料科学ではクリックケミストリーにより複雑なポリマー骨格の合成 (Wu et al. Angew. Chem. Int. Edn 2004)、ナノ粒子の特定部位への修飾 (Taiariol et al. Chem. Rev. 2022)、電極 (Collman et al. Langmuir 2004)・シリカ表面 (Lummerstorfer & Hoffmann, J. Phys. Chem. B 2004) への分子の精密付着が実現し、触媒・電池などの現実世界への応用が広がった (Figure 1b)。これらの進展は、クリックケミストリーが化学者のツールキットを継続的に拡張し、新たな応用分野を開拓していることを示している。

考察/結論

本Commentaryは、クリックケミストリーが2001年の提唱から25年で薬剤探索・化学生物学・材料科学の3分野を横断する科学的革命をもたらしたことを、20件の文献を辿りながら総括している。

先行研究との違い: 著者らが特筆するのは、クリックケミストリーの影響がその提唱者の当初の想定を大幅に超えて広がった点である。Kolbらが意図したのはあくまで創薬ライブラリー合成の効率化であったが、CuAAC (2002年) は生命科学においてプロテオミクスのスタンダードツールとなり、Bertozziらの生物直交性化学 (2000年) はヒト体内での化学標識・治療を可能とした。「構造よりも機能」という設計思想が、分野の壁を越えた普及の鍵であった。従来のコンビナトリアルケミストリーが多ステップ反応と複雑な混合物分離を要したのと異なり、クリック反応は1ステップ・単一生成物という単純さで高収率を実現した点が対照的である。

新規性: 本研究で初めて、クリックケミストリーが単なる合成手法に留まらず、生物学的研究や材料科学における新たな発見を可能にする「思考様式」そのものを変革したことが強調されている。特に、生体分子に存在しない官能基を用いた生物直交性化学の概念は、生細胞や生体内での化学反応を可能にするという点で新規性が高く、これまで報告されていない応用領域を開拓した。2022年ノーベル化学賞がSharpless (2回目の受賞・史上4人目)、Meldal、Bertozziの3名に授与されたことは、クリック反応と生物直交性化学という相互補完的な2つの系譜が、化学のフロンティアを大きく広げたことを評価したものである。

臨床応用: 本知見は、クリックケミストリーが既に臨床試験に進んでいるポリマー結合薬物分子 (Olanow et al. Mov. Disord. 2020) や、ヒト体内での生物直交性化学応用 (Srinivasan et al. Clin. Cancer Res. 2025) を通じて、臨床応用への道を切り開いていることを示している。次世代リチウム金属電池の構成要素製造 (Hu et al. Small 2024) や触媒設計など、非生物学的分野での実用化も進んでおり、その臨床的有用性は多岐にわたる。

残された課題: 今後の検討課題として、SuFEx (2014年) やphosphorus fluoride exchange (2023年) などの新世代クリック反応のさらなる開発と応用フロンティアの開拓が挙げられる。これらの反応は、生体内適合性や反応条件の拡張余地を持つため、新たな治療法や材料の開発に貢献する可能性がある。Limitationとしては、本レビューが特定の文献に限定されているため、クリックケミストリーの全ての側面を網羅しているわけではない点が挙げられる。しかし、著者らは「クリック反応は化学反応だけでなく科学者の思考様式そのものを変革し続けている」と締めくくっており、25年後の今もツールキットの拡充が続く本分野の将来を示している。この”In retrospect”論文は、単なる歴史的回顧にとどまらず、クリックケミストリーが今後も化学・生命科学・材料科学を横断する共通言語として機能し続けることを示す証言となっている。

方法

本論文はNews & Views Commentaryであり、実験研究を含まない。クリックケミストリーの25年間の発展を概観するため、1995年から2025年までの期間に発表されたn=20件の文献を引用している。これらの引用文献は、クリックケミストリーの主要な概念、代表的な反応、および薬剤探索、プロテオミクス、生物直交性化学、材料科学の4つの主要な応用分野における進展を網羅している。

具体的には、Sharpless、Meldal、Bertozziらによるクリックケミストリーおよび生物直交性化学の提唱と発展に関する基礎論文、銅触媒アジド-アルキン付加環化 (CuAAC) 反応の発見に関する報告、およびその後の薬剤探索、生細胞内での生体分子標識、ポリマー合成、ナノ粒子修飾、電極表面への分子付着といった多岐にわたる応用に関する論文が参照されている。また、Staudinger ligationの生体内治療応用に関する包括的レビュー (Bednarek et al. Chem. Rev. 2020) や、SuFEx (sulfur(VI) fluoride exchange) 化学 (Dong et al. Angew. Chem. Int. Edn 2014) やphosphorus fluoride exchange化学 (Sun et al. Chem 2023) といった新世代クリック反応の開発に関する最新の報告も含まれている。

本レビューは、特定の統計手法を用いたデータ解析や、細胞株 (例: A549) や動物モデル (例: C57BL/6J) を用いた実験データは含まない。その代わりに、既存の科学文献を統合し、クリックケミストリーの歴史的意義と広範な影響を質的に評価している。文献検索は特定のデータベース (例: PubMed) に限定されず、本分野の主要なマイルストーンとなる論文が選択的に引用されている。