- 著者: Suk Jae Hahn, Jin Young Oh, Jeung Sook Kim, Do Yeun Kim
- Corresponding author: Do Yeun Kim (Department of Internal Medicine, Dongguk University Ilsan Hospital, Goyang, South Korea)
- 雑誌: International Journal of Clinical Oncology
- 発行年: 2011
- Epub日: 2011-04-01
- Article種別: Case Report
- PMID: 21455627
背景
がん患者は悪性腫瘍自体による高凝固状態から血栓塞栓症リスクが高いことが知られているが、化学療法がそのリスクを更に増大させることが近年報告されている。Numico et al. (2005) の前向き研究では、シスプラチン (cisplatin) とゲムシタビン (gemcitabine) 化学療法を受けたn=98例の非小細胞肺がん患者において静脈血栓塞栓症 (VTE: venous thromboembolism) の発生率が17.6%に達することが示された。Hicks et al. (2009) の多施設プール解析でも、化学療法を受けた非小細胞肺がん患者でVTE発症が有意に増加することが確認されている。また Starling et al. (2009) は進行胃食道がんへのプラチナ系化学療法中の血栓塞栓症リスクを詳細に報告した。化学療法薬はトロンビン-アンチトロンビン複合体の増加、内因性トロンビン産生能の亢進、血管内皮細胞障害を通じて凝固カスケードを変化させることが示されており (Icli et al. 1993)、特に血流の遅い静脈系ではVirchowの三徴 (stasis: 血流鬱滞、hypercoagulability: 高凝固、venous injury: 静脈壁損傷) がリスク因子として機能する。
一方、高速血流を持つ動脈系での血栓形成は極めて稀であり、心疾患や動脈硬化 (atherosclerosis) などの基礎疾患を持たない患者での発症はさらに珍しい (Babu et al. 1995)。シスプラチンベースの化学療法を受けた患者の約10%に静脈閉塞性疾患や静脈・動脈血栓などの血管毒性が報告されているが (Weijl et al. 2000)、化学療法関連動脈血栓症の症例は世界でもわずか数例が報告されているに過ぎない (Barcelo et al. 2000; Dieckmann et al. 2009; Poiree et al. 2004; Morlese et al. 2007; Mathews et al. 1997)。シスプラチンによる動脈血栓形成の正確な機序、特に素因のない患者における上行大動脈などの非典型部位での発症に関する臨床的知見が不足しており、診断・治療指針の確立が求められている。
目的
悪性胸水に対するシスプラチン (cisplatin) とエトポシド (etoposide) 併用療法後に、動脈硬化などの明確な素因なく上行大動脈血栓症を発症した74歳男性の稀な症例を報告する。本症例を通じてシスプラチン誘発性動脈血栓症の推定機序、臨床像、治療法を既存の文献と比較考察し、シスプラチンベースの化学療法における動脈血栓症のリスク認識と早期診断に向けた臨床医への情報提供を目的とする。
結果
患者背景と化学療法前の凝固関連基準値: 74歳男性、50年間の喫煙歴(20本/日)を有するが、高血圧・糖尿病・動脈硬化症・結核の既往はなく、ECOG (Eastern Cooperative Oncology Group) パフォーマンスステータス=1、BMI=20.9 kg/m²と比較的良好な全身状態であった。化学療法前の血液検査では、D-ダイマーが380 µg/L(正常上限324 µg/L)と軽度上昇していたが、PT/INR=0.97(正常範囲0.8-1.2)、aPTT=35.9秒(正常25.0-40.0秒)と凝固系は概ね正常であった。血小板数は322,000/µL、ヘモグロビン15.4 g/dL、WBC=8,950/µLであった。腫瘍マーカーCEA (carcinoembryonic antigen) は61.91 ng/mL(正常上限4.3 ng/mL)と著明高値を示した。化学療法前の造影CTでは大動脈血栓は認められず、両腎も正常であった (Fig 1a, 1c)。
シスプラチン/エトポシド初回投与後9日目の急性上行大動脈血栓発症: 初回化学療法投与9日後に呼吸困難と労作時胸部不快感が出現し再入院。造影CTにより、上行大動脈に新たな小さな低吸収腔内病変(動脈血栓)が確認され、同時に左腎に急性梗塞が新たに出現していた (Fig 2a, 2b, 2c)。再入院時の血液検査では、D-ダイマーが1,077 µg/Lへと化学療法前の380 µg/Lから2.8-fold上昇し、血小板数は322,000/µLから90,000/µLへと著明に減少した。CRP (C-reactive protein) は28.57 mg/dL、クレアチニンは1.7 mg/dL(入院前1.0 mg/dLから上昇)、BUN (blood urea nitrogen) は36.2 mg/dL、ナトリウム132 mEq/Lであった。動脈血ガス分析ではpH=7.498、pCO2=27.1 mmHg、pO2=70.8 mmHg、SaO2=95.3%を示した。経胸壁心エコーでは心内血栓の証拠はなく、心機能も正常であったため心原性塞栓は否定された。
低分子ヘパリン+ワルファリンによる抗凝固療法と血栓の完全消失: 診断直後からエノキサパリン1 mg/kg皮下注を1日2回、計12日間投与した。入院8日目にワルファリンを追加して経口抗凝固療法への移行を開始した。血栓診断後38日目のフォローアップ造影CTでは、上行大動脈内の血栓は完全に消失していることが確認された (Fig 3a, 3b)。一方、左腎動脈梗塞は依然として残存していた (Fig 3c)。治療期間を通じて生命を脅かす重大な臨床イベントは発生しなかった。
後続化学療法への移行と退院時データ: シスプラチンをカルボプラチン (carboplatin) に変更し、ワルファリン継続下で後続化学療法が施行された。退院時の血液検査では、PT/INR=2.12(目標治療域0.8-1.2 INR)、ヘモグロビン11.5 g/dL、血小板数417,000/µLと凝固管理および血球数の回復傾向を示し、化学療法関連の重篤な合併症なく退院した。
考察/結論
本症例は、化学療法関連動脈血栓症に関するこれまでの研究・既報と比較していくつかの重要な特徴において異なる点を持つ。Mathews et al. (1997) が報告したプラチナ系化学療法後の動脈血栓症6例では、血栓部位は腹部大動脈・下肢動脈など相対的に血流速度が低い領域が多かったが、本症例では血流速度が高い上行大動脈に血栓が形成されており、この点で対照的な病態像を示している。また既報の多くは末梢血管疾患などの基礎疾患を有する患者であったのに対して、本症例では動脈硬化・心疾患・高血圧・糖尿病の既往がなく、BMI=20.9 kg/m²、ECOG PS=1と全身状態良好な患者に血栓が発症した。
本症例の新規の臨床的意義として、シスプラチン/エトポシド化学療法が悪性腫瘍による高凝固状態に加算的に働き、予防因子を持たない患者でも上行大動脈という非典型部位に急性動脈血栓を誘発し得ることを、これまで報告されていない明確な症例として示した点が挙げられる。機序として、シスプラチンが単球の組織因子 (tissue factor) 活性増強・血小板活性化・フォン・ヴィルブランド因子 (von Willebrand factor) の取り込み増加を通じた内皮損傷を引き起こすことが Walsh et al. (1992) および Licciarello et al. (1985) によって示されており、これらが凝固亢進を促進したと考えられる。また Kuenen et al. (2003) は、VEGF (vascular endothelial growth factor) が血小板から内皮細胞へ供給されることで内皮保護に働くこと、化学療法による血小板減少がこの保護作用を低下させ血栓形成を促進することを報告しており、本症例での血小板減少 (322,000→90,000/µL) がこの機序を支持する。さらに、赤血球の凝固促進活性をシスプラチンが増強することも Lu et al. (2008) により示されており、本症例でみられた著明なD-ダイマー上昇(2.8-fold増加)は多因子的な凝固系活性化を反映していると解釈できる。
本知見の臨床的意義として、シスプラチンベースの化学療法中に原因不明の胸痛・呼吸困難・腎機能悪化が出現した際は、動脈硬化などの素因がなくとも上行大動脈・腎動脈などの非典型部位における動脈血栓を積極的に鑑別に含め、造影CTによる迅速な評価が不可欠である。動脈血栓に対する標準治療は未確立であるが、本症例では静脈血栓塞栓症に準じたLMWH導入後ワルファリン移行という戦略で血栓の完全消失を達成しており、臨床現場における抗凝固療法の有効性を示す具体例となる。後続化学療法ではシスプラチンをカルボプラチンに変更し継続できた点も、血栓発症後の治療戦略として参考になる。
残された課題として、エトポシドが血栓形成に加える寄与の機序解明が今後の重要な検討課題である。既報6例中5例がエトポシドとプラチナ製剤の併用例であり、エトポシドがVEGFや体液性凝固因子を増加させる可能性が示唆されているが、その機序は依然として不明である。また、本症例ではシスプラチン投与後の低マグネシウム血症 (hypomagnesemia) が動脈攣縮を介した血栓リスクを高めた可能性 (Vogelzang et al. 1985) も考えられるが、入院時にマグネシウム値が測定されておらずこの因子の関与は評価できなかった。プラチナ系化学療法による動脈血栓リスクの層別化指標の標準化、および高リスク患者への予防的抗凝固療法の有効性・安全性に関する更なる検討が必要である。limitation として、本報告はn=1の症例報告であり、機序推定および治療方針の一般化には多数例を対象とした前向き研究が不可欠である。
方法
本研究は単一症例の症例報告として実施された。対象は、胸水の細胞診・免疫化学染色によりサイトケラチン (cytokeratin) 7陽性、CK20陰性、カルレチニン (calretinin) 陰性、甲状腺転写因子-1 (TTF-1) 陽性の転移性腺癌と確定され肺原発が強く示唆された74歳男性である。上部消化管内視鏡と大腸内視鏡は正常で他臓器原発は否定された。
緩和化学療法としてシスプラチン75 mg/m²(第1日)とエトポシド100 mg/m²(第1-3日)静脈内投与の初回サイクルが施行された。化学療法開始9日後に呼吸困難と労作時胸部不快感を訴え再入院となり、造影胸部CTスキャン、経胸壁心エコー検査 (transthoracic echocardiography)、動脈血ガス分析、および血液凝固検査(D-ダイマー (D-dimer)、プロトロンビン時間/国際標準化比 (PT/INR)、活性化部分トロンボプラスチン時間 (aPTT))を含む精査が施行された。心内血栓除外のためのエコーと、腎梗塞評価を含む造影CT比較読影により大動脈血栓症と左腎梗塞の診断が確定した。
血栓の治療として低分子ヘパリン (LMWH: low-molecular-weight heparin) であるエノキサパリン (enoxaparin) 1 mg/kg皮下注1日2回を12日間投与し、入院8日目からワルファリン (warfarin) を追加して経口抗凝固療法に移行した。治療効果は血栓診断後38日目の造影CTフォローアップで評価した。本症例報告において統計解析は実施されていない。