• 著者: Shizuka Ito, Yuki Nakamura, Takahiro Noumi, Yuichiro Sasaki
  • Corresponding author: Shizuka Ito (Saiseikai Sakaiminato Hospital / Division of Medical Oncology and Molecular Respirology, Faculty of Medicine, Tottori University, Japan)
  • 雑誌: Internal Medicine
  • 発行年: 2013
  • Epub日: 2013-05-01
  • Article種別: Case Report
  • PMID: 23648716

背景

動脈硬化、動脈解離、あるいは動脈瘤などの既存の血管病変を伴わない大動脈血栓症の発症は極めて稀な病態である。一般的に大動脈血栓症は、敗血症、多血症、播種性血管内凝固症候群 (DIC: disseminated intravascular coagulation)、自己免疫疾患といった重篤な高凝固状態に関連して生じることが知られている。がん患者における高凝固状態は、静脈血栓塞栓症 (VTE: venous thromboembolism) の既知のリスク因子として広く認識されているが、動脈血栓塞栓症の報告は比較的少ない。化学療法自体も独立した血栓リスク因子であり、血管内皮細胞の直接的な損傷、凝固系と抗凝固系の分子バランスの不均衡、腫瘍細胞や内皮細胞のアポトーシス、サイトカインの活性化、組織因子 (TF: tissue factor) 活性の増加などを介して血栓形成を誘発すると考えられている。

特にシスプラチン (CDDP: cisplatin) ベースの化学療法は、様々な血管系副作用を引き起こすことが報告されている。シスプラチン関連の動脈血栓症は、小細胞肺癌、精巣セミノーマ、食道腺癌などで散発的に報告されている。しかし、胃癌患者におけるシスプラチン関連大動脈血栓症の報告はこれまでになく、その発生機序や臨床的特徴については依然として未解明な点が多い。特に動脈硬化などの基礎疾患がない症例での発症は極めて稀であり、その詳細な病態生理の解明に向けた知見が不足している。

先行研究において、Haddad et al. (2006) は化学療法誘発性血栓症の一般的な機序を提唱し、Licciardello et al. (1985) はシスプラチン投与に伴う血漿フォン・ヴィルブランド因子 (vWF: von Willebrand factor) の上昇と動脈閉塞性合併症の関連を報告している。また、Ueda et al. (1992) は抗がん剤注入による直接的な動脈壁障害を実験的および臨床的に示している。しかし、これらの知見をもってしても、胃癌の標準治療であるS-1とシスプラチンの併用療法下における急性大動脈血栓症の具体的な動態や、無症候性で発症した際の臨床経過については十分に解明されておらず、治療継続の可否を含めた管理指針に関するエビデンスが不足しているという課題が残されていた。

目的

本症例報告の目的は、動脈硬化や心疾患の既往がない進行胃癌患者が、S-1とシスプラチン併用化学療法を1サイクル投与中に下行大動脈および腹部大動脈に血栓を発症した稀なケースを提示することである。この症例は胃癌患者におけるシスプラチン関連大動脈血栓症の初報告であり、その臨床経過と治療反応を詳細に記述する。さらに、Virchowの三徴候説に基づき、シスプラチンが動脈血栓形成に寄与する可能性のある機序について考察し、シスプラチンベース化学療法を受ける患者における血管系合併症への注意喚起と、今後の治療戦略への示唆を提供することを目的とする。

結果

化学療法前における大動脈の正常開存: 66歳女性の進行胃癌患者 (n=1) において、化学療法開始前に実施されたステージングCTでは、大動脈壁に軽微な石灰化を認めるのみで、血管腔内の狭窄や血栓性沈着物、大動脈の圧迫などの異常は一切認められなかった (Figure A)。心電図は正常な洞調律であり、心房細動などの不整脈は検出されず、心エコー検査でも心内血栓やシャント、心機能低下は認められなかった。治療前の血液凝固系マーカーである血小板数、PT、APTTはすべて正常範囲内であり、血栓形成の素因は確認されなかった。

化学療法第1サイクル後の多発性大動脈血栓の発症: シスプラチン 60 mg/m² (day 8) およびS-1 100 mg/日 (day 1-21) による化学療法を1サイクル施行した。治療効果判定のために実施された胸腹部造影CTにおいて、胃原発巣および転移リンパ節の縮小が確認された一方で、予期せぬ急性大動脈血栓が発見された (Figure B)。血栓は下行大動脈弓、および腎動脈分岐部より下方の腹部大動脈の2箇所に多発しており、腹部大動脈の内腔は断面積比で約30%が血栓により閉塞していた。この時点で、患者には下肢の冷感、疼痛、間欠性跛行、腹痛などの動脈閉塞を示唆する臨床症状は全く認められず、無症候性の血栓として検出された。

凝固系バイオマーカーの変動と抗凝固療法の治療効果: 血栓発見時の血液検査において、FDPが3.4 μg/mLと軽度上昇を示し、さらに血管内皮障害の指標であるvWF活性が201% (正常範囲: 100-170%) と有意な上昇を呈していた。一方で、アンチトロンビンIII活性、PT、APTTは正常範囲内を維持していた。心エコー検査にて肺高血圧症や右心負荷所見はなく、下肢静脈超音波検査でもDVTの合併は否定された。直ちにヘパリン 10,000 U/日の7日間持続静注および経口ワルファリンによる抗凝固療法を開始したところ、2週間後のフォローアップ造影CTにおいて、胸部および腹部大動脈内の血栓はほぼ100%完全に消失していることが確認された (Figure C)。

考察/結論

先行研究との違い: 本症例は、動脈硬化、動脈瘤、心疾患などの明らかな血管病変を持たない進行胃癌患者において、シスプラチンベースの化学療法中に大動脈血栓症を発症した初の報告であり、これまでの報告と対照的である。これまでの報告では、シスプラチン関連動脈血栓症は小細胞肺癌や精巣セミノーマなどで散発的に報告されていたが、胃癌患者での報告は本研究が初めてである。また、動脈硬化などの血管リスク因子がない患者での多発性大動脈血栓発症は、これまでの報告と対照的であり、シスプラチンの血管毒性がより直接的に関与している可能性を示唆する。

新規性: 本研究で初めて、シスプラチンとS-1の併用療法が胃癌患者において大動脈血栓症を引き起こす可能性を新規に示した。特に、無症状で発見された大動脈血栓が、迅速な抗凝固療法によってほぼ完全に消失し、化学療法を継続できた点は、今後の臨床管理における重要な知見である。シスプラチン単独の化学療法関連動脈血栓リスクは文献上2.2%程度とされており、S-1併用の影響も否定できないが、S-1単独で動脈血栓を起こした報告はなく、シスプラチンによる内皮障害とフォン・ヴィルブランド因子 (vWF) 上昇を介した凝固亢進が主因と推測される。

臨床応用: 本知見は、シスプラチンベース化学療法を受けている患者において、治療効果判定のためのCT検査時に大動脈内腔の血栓の有無を積極的に評価する必要があることを示唆する。特に症状がない「incidental」な発見であっても、未治療で放置すれば脳、腸間膜、下肢などの末梢塞栓を引き起こし、致命的なイベントへ進展する可能性があるため、早期発見が極めて重要であり、臨床的有用性が高い。治療戦略として、本症例では静脈血栓症に準じたヘパリンからワルファリンへの抗凝固療法が奏功し、血栓がほぼ完全に消失したことから、同様の治療が有効である可能性が示された。また、ワルファリン併用下で化学療法を継続できたことは、治療中断を回避する上で重要な臨床的有用性を持つ。

残された課題: 今後の検討課題として、シスプラチンベース化学療法における動脈血栓症の正確な発生頻度とリスク層別化、特にD-ダイマー、vWF、FDPなどのバイオマーカーの活用が挙げられる。また、S-1などのフッ化ピリミジン系薬剤併用時の相加効果の解明や、予防的抗凝固療法の適応基準の標準化、オキサリプラチンへの変更が動脈血栓リスク低下に寄与するかの前向き検証が今後の課題 (limitation) として残されている。本報告は、胃癌領域におけるプラチナ製剤の稀少かつ重篤な血管毒性に対する臨床的注意喚起として意義深い。

方法

本研究は、進行胃癌患者におけるシスプラチンベース化学療法中に発症した大動脈血栓症の症例報告 (Case Report) である。対象患者は、食欲低下と鎖骨上リンパ節腫大を主訴に受診した66歳女性 (n=1) である。上部消化管内視鏡検査と生検により、胃前庭部の潰瘍性病変から印環細胞癌が確認され、Virchow転移および傍大動脈リンパ節転移を伴うStage IVの胃癌と診断された。本研究は単一症例を対象とした retrospective な観察に基づく症例記述であり、大規模臨床試験ではないため、臨床試験登録ID (NCT01234567 など) や生存解析のための Kaplan-Meier 法、Cox proportional hazards モデル、log-rank test などの統計手法は適用していない。また、Fisher’s exact テストによる 2 群間比較や、特定の primary endpoint 設定、事前に規定された sample size calculation も実施していない。

患者の既往歴として、12年前に子宮全摘術が施行されていたが、化学療法歴はなかった。5年前まで20 pack-yearの喫煙歴があったものの、高血圧、高コレステロール血症、糖尿病などの心血管リスク因子は認められなかった。ベースラインの血液検査では、血小板数、プロトロンビン時間 (PT)、活性化部分トロンボプラスチン時間 (APTT) は正常範囲内であった。心電図は洞調律で心房細動は認められず、心エコー検査では心機能は正常であった。治療前のステージングCTでは、血管異常、血栓、大動脈の圧迫は認められなかった。

化学療法レジメンとして、シスプラチン 60 mg/m² をday 8に静脈内投与し、S-1 100 mg/日をday 1から21まで経口投与するサイクルが計画された。制吐剤としてデキサメタゾン 8 mgをday 8に、5 mgをday 9と10に併用投与した。治療経過中、患者はGrade 3の食思不振と嘔吐を経験したが、シスプラチン投与を含む第1サイクルは完遂された。

治療効果判定および再ステージングのために胸腹部造影CTが実施された。このCT検査では、転移巣の縮小という治療効果が確認されると同時に、予期せず下行大動脈弓と腹部大動脈(腎動脈下部)に血栓性沈着物が発見された。腹部大動脈は約30%が血栓で閉塞していたが、下肢虚血や間欠性跛行などの臨床症状は認められなかった。血栓発症時の血液検査では、フィブリン分解産物 (FDP) が3.4 μg/mLに上昇し、フォン・ヴィルブランド因子 (vWF) は201% (正常範囲: 100-170%) と軽度上昇していた。アンチトロンビンIII、PT、APTTは正常範囲内であった。心エコー検査では肺高血圧症は認められず、肺塞栓症や深部静脈血栓症 (DVT) の兆候もなかった。

血栓のさらなる合併症を予防する目的で、直ちに抗凝固療法が開始された。ヘパリン 10,000 U/日を7日間静脈内投与し、経口ワルファリンも同時に開始された。2週間後のフォローアップCTでは、胸部および腹部大動脈の血栓はほぼ完全に消失していることが確認された。患者はがんや血栓に関連する不快症状を訴えることなく、ワルファリン併用下でシスプラチンとS-1による化学療法を継続した。