• 著者: Dirk Kessler, Darryl B. McConnell
  • Corresponding author: Darryl B. McConnell (Boehringer Ingelheim RCV GmbH & Co KG, Vienna, Austria)
  • 雑誌: Proceedings of the National Academy of Sciences
  • 発行年: 2020
  • Epub日: 2020-09-30
  • Article種別: Commentary
  • PMID: 32999064

背景

KRAS (Kirsten rat sarcoma viral proto-oncogene) は、肺腺癌、大腸癌、膵癌を含む全ヒト癌の約1/7を駆動する中心的な発癌遺伝子である。KRASはGDP結合型 (不活性型) とGTP結合型 (活性型) の2つのコンフォメーション状態を循環する小GTPaseであり、細胞増殖や生存シグナルを伝達するMAPK経路の中心的スイッチとして機能する。KRAS G12D、G12V、G12Cなどのコドン12、13、61の点変異は、GTP結合型の持続を引き起こし、恒常的な活性化をもたらすことが知られている。KRASシグナルは、CRAF (MAPK経路)、PI3K、RALGDSなどの下流エフェクターとの結合を介して伝達される。

KRASは、C末端のHVR (hypervariable region) とCAAXアンカーを介して細胞膜の内側リーフレットに結合する。KRASにはKRAS4aとKRAS4bの2つのスプライシングバリアントが存在し、いずれも翻訳後修飾されたファルネシル基の挿入を介して膜に結合する。KRAS4aは追加のパルミトイル基を持つ一方、KRAS4bはポリベーシックドメイン (DGKKKKKKSKTK) が第2の膜結合部位として機能し、脂質結合特異性を担うことが報告されている (Zhou et al. 2017)。KRASを活性化・不活性化するタンパク質も細胞膜に局在する。GDPからGTPへの交換を触媒するグアニンヌクレオチド交換因子 (GEF) であるSOS1やSOS2 (Freedman et al. 2006) は、PHドメインによるホスホイノシトールリン酸結合と、ヒストンフォールドの正電荷による膜のリン酸頭部基との相互作用を介して膜に結合する (Gureasko et al. 2010)。GTPのγ-リン酸の加水分解によるKRASの不活性化は、KRAS自身の弱いGTPase活性によって行われるが、より重要なのはGTPase活性化タンパク質 (GAP) によって行われる (Bos et al. 2007)。GAPもRASA1のPHドメインやSH2ドメイン、NF1のSEC14ドメインなど、様々な膜結合ドメインを介して細胞膜にアンカーされる。

膜上でのKRAS Gドメインの正確な配向 (膜近接か膜遠位か) は、エフェクター、GEF、GAPのリクルートメント機構の理解に直結する重要な問いである。しかし、この問いは長年にわたり未解決であり、歴史的に計算モデルと実験データの間で矛盾が生じていた。蛍光異方性研究では、KRASが膜に固定された際のGドメインの自由な回転と高い側方移動が示されている (Werkmüller et al. 2013)。また、KRAS4bをナノディスクに共有結合させた先行するNMR常磁性緩和増強 (NMR-PRE) 研究 (Mazhab-Jafari et al. 2015; Fang et al. 2018) も、KRASの「吊り下がったハート型」コンフォメーションを示唆していた。しかし、これらの研究だけではGドメインの膜上での正確な位置づけを定量的に決定するには情報が不足しており、特に計算アプローチの多くがGドメインが膜に結合していると予測していたため、明確な結論は得られていなかった。この知識のギャップを埋めることが、KRASシグナル伝達の根源的な理解のために不可欠であった。

目的

本Commentaryは、Van et al. (PNAS 2020) の研究を紹介し、その生物学的意義と将来展望を解説することを目的とする。Van et al.の研究は、中性子反射率測定 (NR)、高速光化学酸化 (FPOP)、NMR常磁性緩和増強 (NMR-PRE) という複数の生物物理学的手法を組み合わせることにより、KRAS4bの膜上コンフォメーションに関する長年の論争に決着をつけた。具体的には、KRAS4bのGドメインが膜脂質頭部から36±4 Å離れた「吊り下がったハート型」コンフォメーションをとり、HVRポリベーシック領域のみが膜と接触するという新知見が、下流エフェクターのリクルートメントにどのように影響するかを考察する。また、この新しいモデルがKRAS依存性シグナル複合体の形成メカニズムの理解をどのように変えるか、そして今後の研究方向性やKRAS標的薬開発への示唆についても議論する。本Commentaryは、膜結合タンパク質の分子詳細を研究する上で、人工膜システムと高度な生物物理学的手法の組み合わせがいかに強力であるかを強調するものである。

結果

KRAS4b Gドメインの膜遠位コンフォメーションの定量化: Van et al.の中性子反射率測定 (NR) 実験により、ファルネシル化およびメチル化されたKRAS4b (KRAS4b-FMe) のGドメインが、陰イオン性スパーステザービリピッド膜 (nanodiscs) の脂質頭部基から36±4 Åの距離に位置することが定量的に示された。この結果は、Gドメインが膜に直接接触していない「膜遠位 (membrane-distal)」コンフォメーションをとることを明確に示しており、過去の計算モデルが予測していたGドメインが膜に沈み込んでいるという見解と矛盾するものであった。この36±4 Åという数値は、Gドメインが膜から離れて空間に浮遊していることを強く示唆している。

HVRポリベーシックドメインによる膜接触の特異性: 高速光化学酸化 (FPOP) 実験では、KRAS4b-FMeのHVR (hypervariable region) ポリベーシックドメインのリジン残基のみが、膜との相互作用によって酸化から保護されていることが示された。対照的に、Gドメインのアミノ酸は保護されずに酸化された。この結果は、Gドメインが膜と直接接触していないというNRの結果を独立して裏付けるものであり、HVRが主要な膜アンカーとして機能し、Gドメインを膜から離れた空間に「吊り下げている」ことを示唆している。HVRのポリベーシック領域は、膜の負電荷を持つリン酸頭部基と静電的に相互作用し、KRAS4bの膜結合特異性を決定する重要な要素である。

NMR-PREによる「吊り下がったハート型」コンフォメーションの確証: ガドリニウム (Gd3+) を膜に組み込んだNMR常磁性緩和増強 (NMR-PRE) 実験では、ポリベーシック領域の信号が完全に消失した。これは、この領域が膜に非常に近接していることを示している。さらに、Gドメイン中のβ鎖1-3およびα-ヘリックス2-5の領域で部分的なシグナル減少が観察された。これは、Gドメインが膜から遠位に位置しながらも、特定の角度や向きに制約を受けていることを示唆する。これら3種類の独立した生物物理学的手法のデータは一貫して、HVRが膜に固定され、Gドメインが膜から離れた空間に浮遊する「ハングハート (hanging heart) 型」コンフォメーションをとることを示した。このコンフォメーションは、フライフィッシングのルアーが水面に垂れ下がってターゲットを待つ様子に例えられた (Figure 1)。

コンフォメーションの活性状態非依存性: Van et al.の研究では、KRASON (GTP結合型) とKRASOFF (GDP結合型) の間でGドメインの膜上での位置づけに差は観察されなかった。さらに、CRAFのRAS結合ドメイン (RBD) と結合した後も、KRAS4bの配置に大きな変化は見られなかった。これらの結果は、KRASの活性状態にかかわらず、「吊り下がったハート型」コンフォメーションが維持されることを示唆している。分子動力学 (MD) シミュレーションでも、膜遠位コンフォメーションが最も多く存在する状態として同定され、この「吊り下がったハート型」コンフォメーションが平衡状態における優勢な構造であることが確立された。この知見は、先行するNMR-PRE研究 (Mazhab-Jafari et al. 2015; Fang et al. 2018) が示唆していたKRASの膜遠位コンフォメーションを、本研究が複数の実験手法を用いて確証したことを意味する。

考察/結論

本Commentaryが紹介するVan et al.の研究は、中性子反射率測定、FPOP、NMR-PREという複数の独立した生物物理学的手法を組み合わせるという方法論的強みにより、KRAS4bの膜上コンフォメーションに関する長年の論争に決着をつけた。Gドメインが膜から離れた位置でエフェクターをリクルートするという「hanging heart」モデルは、KRAS依存性シグナル複合体 (GEF SOS、GAP NF1、エフェクターCRAFなど) が膜上でどのように形成されるかの理解を根本的に変えるものである。これまで、KRASのGドメインが膜に近接してエフェクターと結合するというモデルが主流であったが、本研究の結果はこれと異なり、Gドメインが膜から離れた空間でエフェクターを「釣り上げる」ようにリクルートするという新規なメカニズムを提唱している。

本研究で初めて、KRAS4bのGドメインが膜脂質頭部から36±4 Å離れた位置に存在し、HVRのみが膜と接触するという具体的な距離情報とコンフォメーションが確立された。これは、KRASの膜結合様式に関するこれまで報告されていない詳細な構造情報を提供するものであり、KRASシグナル伝達の理解における大きな進歩である。

本知見は、KRASを標的とする薬剤開発、特にKRAS G12C阻害薬 (sotorasib、adagrasibなど) の作用機序の理解に重要な臨床的意義を持つ。これらの阻害薬は非活性型 (GDP結合型) KRASに共有結合してGTP交換を阻害するが、本研究が示した「hanging heart」型コンフォメーションはGDP結合型でも同様に膜遠位であることから、KRAS4bがRAS阻害薬やRAF阻害薬設計における適切な構造的標的として機能することを確認するものである。膜から離れたGドメインが、どのようにしてエフェクターや調節因子と効率的に相互作用するのか、その分子メカニズムの解明は、新たな治療戦略の開発に繋がる可能性がある。

残された課題として、nanodiscsシステムが細胞膜の複雑な脂質組成 (コレステロール、ホスホイノシチドなど) を完全に再現するものではないというlimitationが挙げられる。完全長CRAFとの複合体では、KRASが膜近接コンフォメーションをとりうることも示唆されており、より生理的な環境下でのKRASの挙動を解析する必要がある。今後の検討課題として、KRAS4a (パルミトイル化により膜との会合様式が異なる) とKRAS4bの膜結合様式の比較、KRAS二量体化や多量体化の膜上での解析 (dimeric KRAS阻害のコンセプト)、SOS-KRAS相互作用のnanodiscsシステムへの応用が重要な発展方向として挙げられる。また、KRASの膜上での動態が、細胞内の他の膜結合タンパク質との相互作用やシグナル伝達の特異性にどのように影響するかを解明することも、今後の研究の重要な方向性である。

方法

本論文はCommentary形式であるため、著者自身による実験は実施されていない。代わりに、Van et al. (PNAS 2020) の研究で用いられた主要な生物物理学的手法とモデルシステムが紹介されている。

モデルシステム: Van et al.は、細胞膜を模倣するために、陰イオン性スパーステザービリピッド膜 (nanodiscs) を用いた。この人工膜システムに、ファルネシル化およびメチル化されたKRAS4b (KRAS4b-FMe) を結合させ、膜結合KRASのモデルとして使用した (Gillette et al. 2015)。nanodiscsは、生体膜の複雑さを簡素化しつつ、膜結合タンパク質の挙動を詳細に解析できる利点を持つ (Mazhab-Jafari et al. 2015)。

中性子反射率測定 (NR): NRは、膜結合タンパク質の膜への侵入深度や膜上での配向を決定できる表面感受性散乱技術である (Heinrich and Lösche 2014)。Van et al.は、この手法を用いてKRAS4b Gドメインの膜脂質頭部基からの距離を定量的に測定した。

高速光化学酸化蛋白質解析 (FPOP): FPOPは、ヒドロキシルラジカルを用いて露出したアミノ酸を酸化し、膜との相互作用によって保護されたアミノ酸を同定する手法である (Li et al. 2018)。水素/重水素交換 (H/D交換) に類似したフットプリンティング法であり、最近ではコントロールペプチドの導入により、脂質などのラジカル反応性種が存在する場合でも経時的なデータ比較が可能となっている (Niu et al. 2017)。KRAS4b-FMeを用いたFPOP実験により、膜と直接接触するKRAS4bの領域が特定された。

NMR常磁性緩和増強 (NMR-PRE): NMR-PREは、タンパク質表面と常磁性核の近接性に関する情報を提供する確立された手法である (Kosen 1989)。Van et al.は、ナノディスクの膜に常磁性ガドリニウム (Gd3+) を組み込み、15N標識KRAS4b-FMeのNMRクロスピークシグナル強度の変化を測定した。これにより、KRAS4bの各残基が膜にどれだけ近接しているか、およびGドメインの全体的な配向に関する情報が得られた。

分子動力学 (MD) シミュレーション: 上記の生物物理学的拘束条件を用いて、KRAS4bの膜上での動態と優勢なコンフォメーションを予測するためにMDシミュレーションが実施された。これにより、実験データと整合するKRAS4bの構造モデルが構築された。