- 著者: Lin Gao, Ying Liu, Ying Yu, Yingga Wu, Zesong Li, John R. Speakman
- Corresponding author: Zesong Li (Shenzhen University), John R. Speakman (SIAT, CAS; University of Aberdeen)
- 雑誌: Cell Metabolism
- 発行年: 2026
- Epub日: N/A
- Article種別: Original Article
- PMID: 41780522
背景
がん悪液質 (cancer cachexia) は、骨格筋や脂肪組織の持続的な減少を特徴とする全身性の消耗性症候群である。全がん患者の50%から80%に影響を及ぼし、がんによる死亡全体の20%から40%に直接関与していることが知られている (Argiles et al. NatRevCancer 2014)。この病態は、単なる栄養摂取の低下にとどまらず、腫瘍と宿主の相互作用による複雑な代謝異常が関与している (Arends et al. ESMOOpen 2021)。通常、生体は脂肪組織の減少に伴い脂肪由来ホルモンであるレプチンの血中濃度が低下すると、視床下部の摂食中枢が刺激されて食欲が亢進し、エネルギーバランスを回復しようとする。しかし、がん悪液質においては、このレプチン低下による食欲亢進のフィードバック機構が破綻しており、著しい脂肪減少が生じているにもかかわらず食欲が回復しないという「逆説的な食欲不振」が観察される。この食欲回復障害を駆動する詳細な中枢神経系シグナルや、炎症性メディエーターと摂食抑制経路の直接的なリンクについては、詳細なシグナル伝達が不足しており、依然としてその分子機序は未解明であった。特に、S100A9/RAGE (receptor for advanced glycation end products; 終末糖化産物受容体) 経路は脳転移などの他の中枢神経病態でも関与が示唆されているが (Monteiro et al. NatMed 2022)、がん悪液質における中枢性の食欲不振や代謝異常との直接的な関連については依然として不明であり、基礎的知見が著しく不足しているのが現状である。また、悪液質における全身のエネルギー消費量の変化や、腫瘍による宿主組織からの窒素源 (タンパク質) の能動的獲得機構についても、詳細な定量的解析がなされておらず、治療介入への大きな課題として残されていた。このように、がん悪液質における中枢性の食欲不振および代謝異常を標的とした治療薬開発のための基礎的知見が著しく不足しているのが現状である。
目的
本研究の目的は、がん悪液質マウスモデルを用いて、悪液質進行期における体組成変化、全身および臓器別のエネルギー代謝、そして腫瘍への窒素源供給動態を詳細に解析することである。さらに、脂肪減少に伴うレプチン低下下でも食欲が回復しない分子機序を解明するため、視床下部におけるトランスクリプトーム解析を行い、食欲低下および脂肪組織減少を仲介する新規の中枢シグナル経路を同定する。最終的には、同定された S100A8/A9 (S100 calcium-binding protein A8 and A9; S100カルシウム結合タンパク質A8/A9) および C3 (complement 3; 補体第3成分) 経路に対する薬理学的介入、すなわち特異的阻害薬 ABR-215757 (paquinimod; パキニモド) の投与や、遺伝学的介入、すなわち AAV (adeno-associated virus; アデノ随伴ウイルス) を用いた shRNA (short hairpin RNA; ショートヘアピンRNA) によるノックダウンが、悪液質マウスにおける食欲不振、体重減少、および脂肪・筋肉組織の消耗を治療的に改善できるかを実証することを目的とする。
結果
**悪液質マウスにおける筋肉・脂肪組織の優先的消耗と体組成変化**:
LLCおよびMC38腫瘍細胞を皮下移植した悪液質マウスモデル (n=16 mice) において、移植後28日間にわたる詳細な体組成追跡を行った。Echo-MRIを用いた経時的測定により、移植後21日目を境界として脂肪量が急激かつ有意に低下し、最終的にはほぼ完全に消失することが示された (p<0.01) (Figure 1B, 1C)。これに対し、腫瘍の増殖に伴い総除脂肪量は一見増加しているように見えたが、腫瘍重量を差し引いた宿主除脂肪量 (TF (tumor-free; 腫瘍非含有) lean mass) を算出すると、NTB群と比較して著しく減少していることが明らかとなった (p<0.0001) (Figure 1E)。さらに、各組織の消耗度を定量化する utilization index 解析を実施したところ、副睾丸脂肪や皮下脂肪などの脂肪組織、および腓腹筋などの骨格筋、皮膚が優先的に分解・利用される一方 (gradient > 1)、脳、腎臓、肺などの生命維持に直結する臓器は相対的に保護される (0 < gradient < 1) という明確な階層性が存在することが判明した (Figure 1F, 1G)。この悪液質下における骨格筋の過剰な消耗パターンは、単に摂食量が低下した PF 群や、同様のカロリー制限を課した CR 群 (n=20 mice) の体組成変化パターンとは明確に異なる、がん悪液質に特異的な代謝表現型であった。
**エネルギー消費の維持と臓器間代謝代償機構の同定**:
がん悪液質状態における全身のエネルギー代謝動態を解明するため、間接熱量測定システムを用いて詳細な解析を行った。LLCおよびMC38悪液質マウス (n=11 mice) において、酸素消費量 (VO2)、二酸化炭素排出量 (VCO2)、および1日総エネルギー消費量 (DEE) や安静時エネルギー消費量 (REE) は、腫瘍を保持しないNTB対照群と比較して有意な差を示さなかった (p>0.05) (Figure 2A, 2E, 2H)。指数関数的に増殖する腫瘍が極めて高い代謝活性を持つにもかかわらず、個体全体のエネルギー消費量が増加しないという矛盾を検証するため、18F-FDG PET/CTを用いた臓器特異的なグルコース摂取率の可視化を行った。その結果、悪液質マウスでは、腫瘍および熱産生が亢進した褐色脂肪組織 (BAT) におけるグルコース摂取が著しく増加している一方で、脳や腎臓、骨格筋などの他臓器における摂取が有意に低下していることが明らかとなった (Figure 3B, 3E)。この臓器間でのエネルギー基質の再分配による代謝代償機構は、ヒトがん患者 (n=62 patients) の術前・術後PET/CTデータの比較解析でも同様に観察され、がん患者では術前に脳や筋肉、皮下脂肪でのグルコース摂取が低下する一方、BATでの摂取が有意に亢進していた (p<0.05) (Figure 4E)。
**15Nトレーサーによる腫瘍の宿主組織由来窒素獲得の実証**:
悪液質における骨格筋の持続的な減少と腫瘍の急速な拡大との関連性を解明するため、15N標識飼料を用いた isotope tracing (同位体追跡) 実験を実施した。LLC腫瘍移植マウス (n=5 mice) に15N標識飼料を1日間投与したところ、腫瘍組織において極めて高い15N取り込みとタンパク質合成活性が確認された (Figure 5C)。続いて、15N標識飼料から通常の14N飼料に切り替えた後の追跡実験 (n=4 mice) を行った。もし腫瘍が食事由来の栄養素のみに依存して成長しているならば、切り替え後の腫瘍内15N含有量は維持されるはずであるが、実際には2日目から5日目にかけて腫瘍内の15N存在比が有意に低下 (約1.8-fold減少) し、14Nによる希釈が生じていることが判明した (p<0.05) (Figure 5F)。この結果は、腫瘍が食事から摂取されたアミノ酸を直接利用するだけでなく、宿主の骨格筋などの組織分解によって血中に放出されたアミノ酸 (窒素源) を能動的かつ優先的に取り込んで自らの増殖基質として利用していることを直接的に証明している (Figure 5H)。
**視床下部における補体C3の上昇と食欲抑制の遮断**:
悪液質マウスにおいて、脂肪組織の減少に伴い血中レプチン濃度が著しく低下し、視床下部の飢餓シグナル (NPY (neuropeptide Y; ネウロペプチドY) および AGRP (agouti-related protein; アグーチ関連タンパク質) の上昇、POMC (pro-opiomelanocortin; プロオピオメラノコルチン) の低下) が活性化されているにもかかわらず、摂食量が増加しないという「逆説的食欲不振」の分子機序を探索した。悪液質マウスの視床下部を用いた網羅的RNA-seq解析 (n=10 mice) により、補体第3成分 (C3) 遺伝子が最上位の変動遺伝子 (log2FC 2.4) として同定された (Figure 6A)。免疫組織化学的解析により、C3タンパク質は視床下部弓状核 (ARC; arcuate nucleus) において発現が著しく上昇しており、主にミクログリア (24.7%) およびアストロサイト (19.0%) に局在していることが確認された (Figure 6B)。この視床下部C3の病態生理学的役割を検証するため、AAVを用いた shRNA によるC3の局所ノックダウン (shC3-hypo) をARCに対して実施した (n=12 mice)。その結果、C3をノックダウンした悪液質マウスでは、対照群と比較して悪液質による摂食量低下および体重減少が有意に抑制され (p<0.05) (Figure 6O, 6P)、さらに末梢の脂肪組織や筋肉組織の喪失も有意に緩和された (Figure 6S)。
**S100A8/A9-C3経路の同定とABR-215757による悪液質改善効果**:
視床下部RNA-seqのKEGG (Kyoto Encyclopedia of Genes and Genomes; 京都遺伝子ゲノム百科事典) パスウェイ解析から、悪液質脳内では炎症反応制御経路が最も活性化されており、その上流因子として S100A8 (log2FC 3.1) および S100A9 の発現が著しく上昇していることが同定された (Figure 7A)。組換え rmS100A8/A9 タンパク質を正常マウスに急性投与した実験では、投与後12時間にわたり顕著な食欲抑制 (摂食量の約2.5-fold減少) が誘導された (Figure 7E)。この炎症性シグナルを遮断するため、S100A8/A9特異的阻害薬である ABR-215757 (paquinimod) をLLC悪液質マウス (n=7 mice) に連日腹腔内投与した。その結果、阻害薬投与群では、最終5日間の累積摂食量が対照群と比較して約2.5 g有意に増加し (p<0.05) (Figure 7M)、腫瘍非含有体重が約2 g (総体重の約7%に相当) 回復した (Figure 7L)。この体重回復の半分は脂肪組織の保持によるものであり (Figure 7N)、視床下部におけるC3および RAGE の発現低下を伴っていた。
考察/結論
先行研究との違い: がん悪液質における骨格筋や脂肪組織の消耗に関する研究は、これまで主に末梢組織における炎症性サイトカイン (IL-6やTNF-αなど) の作用や、筋肉におけるユビキチン・プロテアソーム経路の活性化に焦点を当ててきた (Argiles et al. NatRevCancer 2014)。これに対し、本研究は、末梢の消耗シグナルと中枢の摂食制御中枢とのミスマッチ、すなわちレプチン低下下でも食欲が回復しない「逆説的食欲不振」の脳内メカニズムに着目した。このアプローチは、これまでの末梢中心の悪液質研究と異なり、中枢神経系による代謝制御の破綻という新たな視点を提供している。
新規性: 本研究は、がん悪液質マウスの視床下部において、炎症性タンパク質複合体であるS100A8/A9および補体C3が著しく上昇し、これが弓状核における標準的な飢餓シグナル (NPY/AGRP経路) を機能的に遮断していることを本研究で初めて明らかにした。S100A8/A9が視床下部においてRAGEを介して NFκB (nuclear factor-kappa B; 核内因子κB) を活性化し、C3の発現を誘導するという新規の「S100A8/A9-C3」シグナル経路を同定したことは、悪液質における中枢性食欲不振の分子実体を解明する上で極めて重要な知見である。S100A9/RAGE経路は脳転移などの他の中枢神経病態でも関与が示唆されているが (Monteiro et al. NatMed 2022)、摂食抑制の中枢シグナルとしての役割はこれまで報告されていない。
臨床応用: 本研究の知見は、現在有効な治療薬が存在しないがん悪液質に対する新たな治療戦略の臨床応用に直結する。特に、血液脳関門を通過可能なS100A8/A9阻害薬である ABR-215757 (paquinimod) が、悪液質マウスにおいて食欲を回復させ、脂肪組織および筋肉組織の減少を有意に抑制したという結果は、極めて高い臨床的意義を持つ。この薬剤は、すでに自己免疫疾患などの臨床試験に供されており、がん悪液質患者に対する translational な治療アプローチとして、早期の臨床導入が期待される。
残された課題: しかしながら、本研究にはいくつかの limitation が存在し、今後の課題として残されている。第一に、本研究で得られた知見は主にマウスモデル (LLCおよびMC38) に基づくものであり、ヒトのがん悪液質病態へそのまま外挿できるかについては、さらなる臨床検証が必要である。第二に、S100A8/A9阻害薬の投与が末梢の免疫系や腫瘍微小環境に及ぼす影響、および中枢作用と末梢作用の相対的な寄与率については十分に解明されておらず、長期投与における安全性を含めた詳細な検討が今後の検討課題である。
方法
動物モデルと体組成解析: 8週齢の雄性 C57BL/6N マウス (Charles River Laboratories) を使用し、18週齢まで順化した後に実験を開始した。LLC (Lewis lung carcinoma; ルイス肺がん) 細胞 (2 x 10⁶ cells) または MC38 (mouse colon 38; マウス大腸がん) 細胞 (2 x 10⁶ cells) を右側腹部に皮下移植し、28日間にわたり追跡した。対照群として、腫瘍を移植しない NTB (non-tumor-bearing; 腫瘍非保持) 群、および腫瘍移植群の摂食量に合わせた PF (pair-feeding; ペアフィーディング) 群、さらには CR (calorie restriction; カロリー制限) 群を設定した。体組成 (脂肪量および除脂肪量) は、Echo-MRI (echo magnetic resonance imaging; エコー磁気共鳴画像法) を用いて経時的に測定した。
エネルギー代謝および臓器別代謝解析: 間接熱量測定システム (TSE PhenoMaster, TSE Systems社製) を用いて、VO2 (oxygen consumption; 酸素消費量)、VCO2 (carbon dioxide production; 二酸化炭素排出量)、RER (respiratory exchange ratio; 呼吸商)、DEE (daily energy expenditure; 1日総エネルギー消費量)、REE (resting energy expenditure; 安息時エネルギー消費量)、および PA (physical activity; 自発的活動量) を測定した。また、18F-FDG (18-fluorodeoxyglucose; 18F-フルオロデオキシグルコース) を用いた PET/CT (positron emission tomography / computed tomography; 陽電子放出断層撮影/コンピュータ断層撮影) イメージングにより、マウスおよびヒトがん患者 (n=62 patients) の臓器別 (腫瘍、BAT (brown adipose tissue; 褐色脂肪組織)、脳、腎臓など) のグルコース摂取率を算出した。
窒素源トレーサー解析: 腫瘍の窒素供給源を同定するため、15N標識飼料を用いた isotope tracing (同位体追跡) 実験を行った。15N標識飼料を1日間投与した後の組織分解および腫瘍への窒素移行を、質量分析計を用いて解析した。
視床下部シグナル解析と遺伝子操作: 悪液質マウスの視床下部を回収し、RNA-seq (RNA sequencing; RNAシーケンシング) による網羅的遺伝子発現解析を実施した。同定された C3 の機能を検証するため、pHBAAV-U6-shC3-CMV-EGFP (shC3-AAV; C3に対するshRNAを発現するアデノ随伴ウイルスベクター) をマウスの側脳室 (LV; lateral ventricle) または視床下部弓状核 (ARC; arcuate nucleus) に定位的に注入し、局所的ノックダウンを行った。また、VTA (ventral tegmental area; 腹側被蓋野) や NAc (nucleus accumbens; 側坐核) における C3 シグナルの発現も免疫組織化学的に探索した。
薬理学的介入: S100A8/A9の特異的阻害薬である ABR-215757 (paquinimod、血液脳関門通過性あり) を腹腔内投与 (daily i.p.) し、摂食量、体重、および体組成への治療効果を検証した。また、OMP (osmotic minipump; 浸透圧ミニポンプ) を用いて組換え rmS100A8/A9 タンパク質を正常マウスに持続投与する実験も行った。
統計解析: データの比較には、1元または2元配置分散分析 (ANOVA)、GLM-RM (generalized linear model repeated measures; 一般線形モデル反復測定)、および unpaired t検定 (t検定) を用い、事後検定として Bonferroni 法を適用した。